福 生 市 民 九 条 の 会

五日市憲法草案を訪ねる5/7
日付:2006年5月7日(日) 自由民権に輝いた青春
参加者:32名。福生市民九条の会、青梅九条の会、あきる野九条の会、フォーラム色川の会など
訪問コース:JR牛浜駅⇒旧深沢家跡(五日市憲法草案の発見場所)⇒五日市郷土館(五日市憲法の説明資
料など)⇒旧五日市庁舎(五日市憲法遺跡)⇒牛浜駅。
説明者:江井秀雄さん。(五日市憲法の調査者の1人)
*江井先生は色川大吉さん達と一緒に埋もれていたこの 憲法草案を発見した方です。
<概要>
1.明治の私擬憲法が作られた時代について
2.多摩地区の自由民権運動の発展
3.五日市憲法はどうして生まれたか、その背景、環境、地域性、起草プロセスについて
4.作成者の「千葉卓三郎」の出身、出生、人生観について
江井秀雄さんの本の紹介
江井秀雄『自由民権に輝いた青春』について
五日市憲法草案の起草者、千葉卓三郎の評伝。
共著で出した『秩父事件−圧制ヲ変ジテ自由ノ世界ヲ』
と同様、ですます体で書かれています。
政治に国民の声が反映しづらくなったのは、細川内閣
時に小選挙区制が強行導入されたころからだと思いま
す。
もちろん、小選挙区制だけが政治が堕落した元凶だと
いうわけではなくて、そのほかにもさまざまな要素が、
国民から政治を縁遠いものにさせています。
自由民権期は、日本の歴史の中でもっとも感動的な時
代の一つです。近年、この時代を学ぼうとする学生が非
常に少ないということを聞きますが、残念なことです。
戦後、民衆の歴史がクローズアップされた時期が、何度
かありました。
1950年代半ばの国民的歴史学運動の時代、1960年代
末の明治百年との対決の時代、1970年代から80年代
にかけての民衆史掘り起こしから自由民権百年運動の
時代がそれにあたります。
1990年代以降、読売新聞・産経新聞など体制マスコミ
と連携した御用デマゴーグが多数出現し、民衆の歴史
に対し激しいイデオロギー攻撃を行いました。
攻撃の重点は主として、侵略戦争や植民地支配の歴史
の改竄や否定におかれましたが、秩父事件など国内の
民衆運動史の否定ないし過小評価も、かれらの思考の
基本パターンでした。
不況と労働の苛酷化という情況の下で、国民の関心
が、よりよい国づくりとか基本的人権の拡大などというと
ころから、当面のジョブの確保とか自分の将来の安定と
いったことに収束していったことも、デマゴーグに活躍の
余地を与えたと思われます。
こうした流れの集大成として今、日本国憲法が改悪され
ようとしています。しかし、国民の側としては、仕事が忙
しくて憲法どころではないというのが正直なところでしょ
う。
色川大吉氏が『明治の文化』や『明治精神史』で五日
市の民権運動や千葉卓三郎を描いて以来30年余が経
過しましたが、この本のおかげで卓三郎の生涯を俯瞰
することができました。五日市憲法草案起草当時の千
葉卓三郎は20代後半でした。秩父事件の幹部たちもほ
ぼ同世代といえます。五日市という一地域で、このよう
な若い人々が真剣に議論し、心血を注いで現憲法にさ
え劣らぬ水準の私擬憲法を作り上げた背景に、どのよう
な時代情況があったのか。
個人や人権などは、近代によってもたらされた普遍的な
価値です。現在、体制側が用意しようとしている改憲案
に普遍的な価値がどれだけ盛り込まれているでしょう
か。
このような情況をもたらした原因の一つは、国民の側が
さらなる憲法改正を提起してこなかったことにもあると思
われます。
千葉卓三郎たちは、国家より個人の方が普遍的だと
いうことをとっくに見抜いていたのでした。
情報の海でおぼれかけている若い人々、仕事に追わ
れ、つかの間の楽しみしか求めていないかに見える
人々には無縁でしょうが、わたしにとって、卓三郎の人
生はみごとに輝いて見えています。
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江井秀雄さん
AM10時、JR牛浜駅に集合。参加者32名。
会長あいさつ
江井秀雄さんをご紹介。
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旧深沢家跡の門。
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旧深沢家跡の門。
右側の小さなくぐり戸から入ります。 |

門の奥に白い蔵があります。この蔵から「五
日市憲法」が発見されました。 |

蔵の前で説明する江井さん。
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蔵の前にある説明文。深沢家屋敷跡。
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五日市憲法草案と深沢家土蔵の説明
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旧深沢家は、五日市駅からかなり山に入った
場所にあります。
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旧深沢家の周り風景。
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蔵の少し上にある深沢家のお墓。
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横から見た蔵。かなり大きな蔵です。
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旧深沢家の横のお寺で記念撮影。
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上から見た蔵。きれいに整備されています。
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五日市郷土館の2階にある、五日市憲法草案の説明文。当時の深沢家の屋敷や深沢権八の写真などがあります。
真ん中のみどり線は保護用ガラスの枠です。 |

旧五日市庁舎前にある五日市憲法草案の碑。
全国に、千葉県(千葉宅三郎の出身地)、五日市(深沢権八の出身地)、仙台市(墓所)の3箇所にあります。 |
深沢家屋敷跡  |
江戸時代長期以前の深沢家の沿革は詳らかではないが、小戸時代後半より土地集積を尾内山林地主として大きく産を伸ばし江戸中期に深沢家の名主役に就任している。
幕末には「同心株」を譲り受け江戸幕府の御家人である八王子千人同心に就き、村内鎮守社の神主をも務めていた。
明治維新を迎え深沢家を継いだ名主(なおまる)は深沢村の戸長に就任し、息子の権八は村用掛に任ぜられ、ついで神奈川県議会員に当選している。
名主・権八親子は三町十四ヶ村から40名誓い会員を集め学習会、討論会、研究会などを行っていた民権結社「学芸講演会」の指導的立場にあり、五日市地域の自由民権運動の中心的な人物であった。
当地は江戸時代後期の名主屋敷の旧態をとどめ、また三多摩自由民権運動を象徴する「五日市憲法草案」発見の場所であり、当時五日市地域で民権運動の中心となっていた豪農民権家の生活様態を推定する遺跡として貴重なものである。
昭和58年5月6日東京都教育委員会。 |
五日市憲法草案と深沢家土蔵  |
五日市憲法草案は明治一三年に深沢権八を中心に結成された学習結社五日市学芸講演会の有志と、宮城県栗原郡白幡村(現栗原市志波姫)に生まれ、位置か位置権能学校の教師としてこの地を訪れていた千葉卓三郎が中心となって明治一四年に想起した、自由民権思想にあふれた私擬憲法草案です。
昭和四三年、東京経済大学教授であった色川大吉氏らが既に朽ちかけていたこの土蔵を調査し、二階からたんすや行季(こうき)、長持(ながもち)などの中にぎっしりと詰まった古文書約一万点を発見しました。
草案には今にも壊れてしまいそうな行季(こうき)の中に古びた小さな風呂敷に包まれて眠っていました。起草から約90年を経た夏の日のことでした。
※土蔵は平成六年に修理が行われています。また、小道を登ったこの屋敷の北側には、深沢権八の眠る深沢家の墓があります。
平成17年11月15日あきる野市教育委員会 |

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